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長門鋳銭所跡

長門鋳銭所跡(ながとちゅうせんしょあと)  
  いまからおよそ千三百年前の奈良時代、長府には長門の国の国府がおかれ、長門国司は鋳銭司の役職を兼任し、貨幣の鋳造が行われていたことは古くから知られていました。そして、当山周辺では、江戸時代より鋳銭遺物がたびたび発見されていましたが、明治四十四年、時の住職、進藤端堂師による境内地の発掘で、和同開珎鋳造に関わる銭笵・鞴羽口(ふいごはぐち)・坩堝(るつぼ)など約百点の鋳銭遺物が発見されたことにより、当山境内地が、和同開珎鋳造との関係で注目されるところとなりました。
和同開珎
 その後、大正10年の発掘など数回にわたる発掘が実施され、大量の鋳銭遺物が出土したことから、昭和4年、「長門鋳銭所跡」(ながとじゅぜんしょあと)として当山境内地等が国の埋蔵文化財指定を受けました。出土遺物は昭和39年、国の重要文化財の指定を受け、現在長府博物館が所蔵しています。
 和同開珎が鋳造された場所は全国他に、近江・山城・河内・武蔵・平城京などが知られていますが、遺構が確実に埋存する遺跡としては、現在のところ本遺跡が唯一のものです。
 
長門鋳銭所跡
 平成22年には覚苑寺境内から南に約50メートルの住宅地での下水道管埋設工事の際、大量の木簡が出土しニュースとなりました。記された内容から、「周防国2か所で採掘・精錬された銅が、銭貨鋳造の目的で長門国に送られ、銅銭の鋳造に充てられた」という『続日本紀(しょくにほんぎ)』の記述を裏付けることとなりました。 因みに銅が生産されていた周防2か所とは熊毛郡牛島西汀と吉敷郡逵理山(きりやま)のことであります。
 また、長門も銅の生産が豊富で、752年に完成した奈良の東大寺大仏に使われた銅を産出したのも長門の現在の美東町の長登(ながのぼり)銅山でありますが、長登では、銅が長門国司に、また、鋳銭司に送られていたことを示す木簡も検出されていますので、長登で産出の銅はここ長門鋳銭所でも多く使われたものと思われます。
 なお、長門鋳銭所の操業開始時期ははっきり分かっていませんが、和銅年間(708年〜715年)から天平(729年〜749年)の初めごろと考えられており、825年に周防鋳銭司(山口市鋳銭司)が置かれたのに伴い閉鎖されました。
 
 
 周防鋳銭司は全国に置かれた鋳銭司のうちで最も長期間、貨幣の鋳造が行われ、平安時代の820年代から950年にかけては全国唯一の貨幣鋳造所でありました。ですが、こちらで鋳造された貨幣は皇朝十二銭のうち富寿神宝(ふじゅしんぽう)から乾元大宝(けんげんたいほう)までの8種類とされており、時代的にも、こちらでは和同開珎の鋳造は行われませんでした。
 皇朝十二銭とは最初の和同開珎を始め、古代に鋳造された十二種類の貨幣を指しますが、時代が下るにつれ、銅の生産量が不足し、それを補うために鉛の割合を増やしたりし、だんだん貨幣の質も粗悪になっていったとのことです。
 ところで、1999年に奈良県明日香村から大量の富本銭が発見され、こちらが日本最古の貨幣であるとされていますが、一般に広く流通したという点においては、和同開珎が日本最古の貨幣であるという位置付けは変わらないでしょう。
 なお、寺の裏山(準提山)は古くは、鋳銭坊(いさんぼう)とも呼ばれ、境内に隣接する細い道には火除け路(ひよけみち)という名が今なお残っていることなどは大変興味深いところです。
発掘調査
2014年8月〜12月、山門建設予定地と位牌堂建設予定地の2カ所の発掘調査が下関市の文化財保護課によって行われました。
 鋳造に直接関係のある遺物は発見されませんでしたが、約4メートル下の地中より奈良時代の瓦が多く出土しました。そのことから、現在の境内地の地形は、山の土砂によって明治の初めに埋め立てられて造成されたということと、この辺りには貨幣の鋳造を司っていたと思われる、役所的な建造物が多く建てられていたということがわかりました。

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